金沢21世紀美術館2009/08/01 20:59

 金沢21世紀美術館へ行ってきました。兼六園の近くにあります。大きな円形の建物で周りがガラス張りになっています。入り口が何カ所かあり、どこからでも出入りが出来ます。とても開放的な美術館です。建物の周りには、芝生の空間が広がり、子どもたちが伸び伸びと走り回っています。美術館というと、難しい絵画がたくさん並び、厳粛な趣の所・・といった感じですか、ここは、全く、違います。作品は名前の通り、現代アートが中心です。

 常設展示も遊び心いっぱいです。部屋の天井に厚いガラスをはり、その上に10㎝程水をためて、深いプールのように見せている、レアンドロ・エルリッヒ(アルゼンチン)の「スイミング・プール」。(写真)下の部屋では、子どもたちが寝ころんだり、走り回ったり、はいずったり(?)でにぎやかな声が響き、幼稚園状態でした。上から見ると子どもたちが、プールの中に涼しげにいるようです。

 天井が正方形に切り取られ、真っ青な空が見えるジェームズ・タレル(アメリカ)の「ブルー・プラネット・スカイ」。下の部屋に設けられたベンチに座って空をずっと見ていると、様々な光や音が感じられ、自分がなくなっていくようで、不思議な感覚になってきます。

 外の芝生に作られたラッパ型の筒。「アリーナのためのクランクフェルト・ナンバー3」フローリアン・クラール(ドイツ)。この筒はいたるところ芝生から生えていて、耳をラッパの中に近づけると、遠い筒とつながっていて、なにかわからない、得体の知れない声や音が聞こえます。

 企画展は「愛についての100の物語」。

 ピアノを演奏すると、その演奏につれて、どんどんピアノが燃えだしていく、山下洋輔の「ピアノ再炎上」(ビデオ作品)。塩田千春のドイツで集めた古い窓枠を山のように積み上げた「記憶の部屋」。森村泰昌の「なにものかへのレクイエム (人間は悲しいくらいにむなしい)。レーニンに扮し、演説をする森村と聴衆となる釜ヶ崎の日雇い労働者。ソビエトとバブル後の日本が重なる不思議な映像です。

 作品が体感できて、子供心に帰ることができる。開放的な遊びの空間。もちろん重いテーマの作品もあるのですが、頭からではなく、体感としてはいりこんでくる。今いる、子どもの伸びやかな声と、歴史への重みが一瞬透明なガラスの中で重なってしまう。そんな不思議な美術館です。

 この会場のために書かれた、谷川俊太郎「あい」という詩作品を紹介します。

      あい

   あい 口で言うのはかんたんだ
   愛 文字で書くのもむずかしくない
  
   あい 気持ちはだれでも知っている
   愛 悲しいくらい好きになること
 
   あい いつでもそばにいたいこと
   愛 いつまでも生きていてほしいと願うこと
  
   あい それは愛ということばじゃない
   愛 それは気持ちだけでもない
   
   あい はるかな過去を忘れないこと
   愛 見えない未来を信じること
  
   あい くりかえしくりかえし考えること
   愛 いのちをかけて生きること

詩集『沿線植物』2009/08/16 09:09

 森ミキエさん著、『沿線植物』は、心の空白を埋めるように、わたしたちは、日常を旅しているのかもしれない、そんな気にさせてくれる詩集だ。

 わたしだけの空白。それは空虚な空間だけを差すのではない。わたしだけのなにか言葉では説明できないけど、大切な場所なのでは、ないか・・。

 冒頭に置かれた詩「午後の図書室」。静かな午後の図書室。何気なく手にした一冊の本に「わたし」は空白のページをみつけてしまう。その空白に誘われるかのように若い頃の記憶が蘇ってくる。

 「わたし」は、何故かPR誌を配っている。チラシには「どうぞ わが家へ ようこそ わが家へ」と怪しげな文面が書かれ、何の勧誘かはわからない。道行く人は、足を止めず、「捨てられた文字」は「いざなわず あこがれられず」チラシとともに風に吹かれ、空へと舞い上がっていく。何故「わたし」は、あんなことをやっていたのだろうか。こころもとなさ、所在のなさ。でも、文字やチラシが消えてもあの時の「わたし」だけは心の片隅にそっと残っているのだ。若い頃の「わたし」は、なにかを捜していたのだろうか。きっと、あのころの「わたし」にも答えは見つからず、今の「わたし」にも、答えはみつからない。生きていくこととは、なにかを捜し続けていいくことなのでは、ないだろうか。

 光の満ちた図書室で一度閉じてしまった本。その本の中の空白のページはもうめくってもみつからない。わたしだけの空白、わたしだけの場所。それは、ほんの一瞬の出来事で、時間の中にすうっと消えてしまう。そのはかなさを知っているが故に、その空間を、言葉でうめつくすように、詩人の感覚の触手、言葉の蔦は伸び続ける。

 伸びる言葉は実に豊かなイメージで異世界を築きあげていく。そして、その発端は、日常のささやかな出来事、何気ない感覚から生じることが多い。

 「Intermission」という詩。休日の昼間だろうか。あなたとわたしは「土の匂いをかぐ格好で寝ている」。

   あなたは((ゆたんぽ))のことを知っているだろうか
   かつて私たちの水たまりだったものの名を
   それは今でも体の片隅にあって
   あふれる温水の床を作り出す

   懐かしい というのは記憶が浮かび上がってきた時の喜びだ
   ゆたんぽの中の温水は ゆるやかな畝をもっている
   失くしていたものや忘れていたものが
   ちゃぷんと音をたてながら浮かんでこられるように

 「ゆたんぽ」という日常の片隅にある何気ない道具からこの詩は始まる。「ゆたんぽ」の中の水は温かい。体の中の一部でもある水と繋がっていくようだ。生きていく遠い昔と生き物の原始の体感を思い出すように繋がるように湯たんぽの温かさが言葉となって伝わってくる。さらに湯たんぽから溢れるイメージは、時空を越え、砂漠へと、そこに住むベトウィンへと言葉を遠く走らせる。オアシスの匂い。風の湿り。幻のような音楽。洪水のように流れる風。温かな水に誘われ、今、砂漠にいるように、読者は、幻影の世界に迷い込む。

   ベトウィンたちは((ゆたんぽ))のことを知っていただろうか
   水たまりだったものの名を
   たぶん知らない 知らないけれど
   それは体の片隅にあって
   夜にはあふれる温水の床を作り出す

 言葉を通し、繋がるわたし、あなた、遠い他者。「あふれる温水の床」。言葉は繁茂し、一瞬であるかもしれないが、瑞々しい豊かな土壌を作り出す。そして、また、あらたな空間へと。旅は限りなく続いているのかもしれない。

詩集『色トリドリの夜』2009/08/28 00:00

  五十嵐倫子さんの詩集『色トリドリの夜』を読みました。暖かな光りにそっと包みこまれるような感じになる詩集です。

 若い女性の感じる日常が、丁寧に瑞々しく、書かれています。会社勤めをし、一人暮らしをしている女性。どこにでもあるような風景なのに、詩人の言葉を通すと、一つしかない、大切な時間として言葉で刻まれていきます。たぶん、五十嵐さんが、言葉を通し、自分を見据え、自分を変えようとしているからなのでしょう。その一途さが、風通しよく、言葉を前へ進めさせます。何か日常の中で躊躇していた読み手を勇気づけ、優しく後押ししてくれます。

 「ファンデーション」という詩。化粧室で洗面台にファンデーションを落とした日常のさりげない描写から始まります。誰でもが体験したよくある光景。破片をつぶし、水を流し、、跡形もなく粉を消し去って、すべてを新しくしていけばいいと心の中で言い切るわたし。しかし、自分を内省していくと、割り切ることのできないもの、新しくすることのできないものがドンドン広がっていきます。

 友達を切り捨てる。家族を切り捨てる。要領よく世の中をわたっていく・・。何かを振り切って、日々を更新していく・・。そんなことはできないと、割り切れない気持ちが広がっていきます。合理的な日常の営みと相反するようにわたしは言葉の世界で、自分を探し始めます。でも、深刻ではなく、五十嵐さんの言葉はとても軽やかにフットワークがいいのです。そして、その軽やかさに読み手は元気づけられます。気持ちの揺れが、流れていくファンデーションの描写とともに、うまく表現されていると思いました。

 「ココロとカラダ」。仕事帰り、疲れた夜。定食屋のいつも決まったカウンターで座って食事をしていると、カラダからココロが離脱して空を飛んでいきます。荒唐無稽な設定も、言葉が柔軟に伸びていくので、すんなりと読み手の中に入ってきます。カラダからココロを見た視点。ココロからカラダを見た視点。それらが連ごとにうまく入れ替わり、定食屋から電車に乗って家のある駅につくまで、ひとつのドラマを見ているようです
 
   意識のない
   カラダは空っぽの器になって
   電車にゆらりゆら揺られていた
   周りにもたくさんの器があって
   一緒に運ばれていく
   座っている器
   立っている器
   喋っている器
   眠っている器
   読んでいる器
   聞いている器
   考えている器
   そのひとつひとつが 灯っている

 きっと、カラダを離れたココロが、電車に揺られて行く人々を天井から眺めたら、こんな感じなんでしょう。「そのひとつひとつが 灯っている」ここに他者を、一人一人を思う、五十嵐さんの優しさがあります。あり得ない風景なのにリアルで、いつか見た(デジャヴュ)光景のような懐かしさまで感じてしまいます。

 「振替乗車」。これも、会社からの帰路のことを書いた詩です。電車が車輌故障をおこした日、わたしは、あずき色から緑色の電車へ。緑色から青色急行へと乗り換えて(何線と言わず、色で表現しているのがとてもおもしろい。)家に帰ってきます。わたしは、いつもと違う風景を見ることが出来ます。いつもと違う駅で降り、いつもと違う道でわたしは中学生のわたし(幻影)と出会います。うつむき加減に、ひとりぼっちで歩くわたし。そういう過去のわたしと決別するかのように、わたしは幻影を追い越し、歩き続けます。

   振り替えられた私は
   好きな色で塗り替えていく
   黒く光る道を
   緑でぬろう  (稲波がいざなう
   青でぬろう  (出航だ!
   一歩踏み出せば
   つま先から色が広がっていく

   色トリドリの夜

   これは幻想ですか?

   いいえ、私は振り替えられていない
   誰にも頼らずこうして歩いている
   塗り替えたその先へと
   私が歩いていく

 言葉で自分の道を歩き進んでいこうとする、きっぱりとした態度。詩集の言葉、一つ、一つが、この進もうとする、広がろうとする作者の思いから、屹立しているのでしょう。

 色トリドリの夜。素敵な言葉です。ただの暗闇ではなく、闇の中にも様々な個性的な色はあるのです。でも、日常の忙しさの中に埋没し、そのすばらしさに気がつかないだけ。言葉の力で、それに、気づいた作者。色トリドリにそれぞれの道を歩んでいけばいいんだ・・。気がつかないすばらしい色が、日々の中には潜んでいるのだ・・。読んでいるうちに、こちらも一歩を踏み出す、ささやかな夢に向かっていく勇気をもらうことができます。自分の道を歩んでいく、足元の確かな温かな感触が蘇ってくるのです。