詩集『沿線植物』2009/08/16 09:09

 森ミキエさん著、『沿線植物』は、心の空白を埋めるように、わたしたちは、日常を旅しているのかもしれない、そんな気にさせてくれる詩集だ。

 わたしだけの空白。それは空虚な空間だけを差すのではない。わたしだけのなにか言葉では説明できないけど、大切な場所なのでは、ないか・・。

 冒頭に置かれた詩「午後の図書室」。静かな午後の図書室。何気なく手にした一冊の本に「わたし」は空白のページをみつけてしまう。その空白に誘われるかのように若い頃の記憶が蘇ってくる。

 「わたし」は、何故かPR誌を配っている。チラシには「どうぞ わが家へ ようこそ わが家へ」と怪しげな文面が書かれ、何の勧誘かはわからない。道行く人は、足を止めず、「捨てられた文字」は「いざなわず あこがれられず」チラシとともに風に吹かれ、空へと舞い上がっていく。何故「わたし」は、あんなことをやっていたのだろうか。こころもとなさ、所在のなさ。でも、文字やチラシが消えてもあの時の「わたし」だけは心の片隅にそっと残っているのだ。若い頃の「わたし」は、なにかを捜していたのだろうか。きっと、あのころの「わたし」にも答えは見つからず、今の「わたし」にも、答えはみつからない。生きていくこととは、なにかを捜し続けていいくことなのでは、ないだろうか。

 光の満ちた図書室で一度閉じてしまった本。その本の中の空白のページはもうめくってもみつからない。わたしだけの空白、わたしだけの場所。それは、ほんの一瞬の出来事で、時間の中にすうっと消えてしまう。そのはかなさを知っているが故に、その空間を、言葉でうめつくすように、詩人の感覚の触手、言葉の蔦は伸び続ける。

 伸びる言葉は実に豊かなイメージで異世界を築きあげていく。そして、その発端は、日常のささやかな出来事、何気ない感覚から生じることが多い。

 「Intermission」という詩。休日の昼間だろうか。あなたとわたしは「土の匂いをかぐ格好で寝ている」。

   あなたは((ゆたんぽ))のことを知っているだろうか
   かつて私たちの水たまりだったものの名を
   それは今でも体の片隅にあって
   あふれる温水の床を作り出す

   懐かしい というのは記憶が浮かび上がってきた時の喜びだ
   ゆたんぽの中の温水は ゆるやかな畝をもっている
   失くしていたものや忘れていたものが
   ちゃぷんと音をたてながら浮かんでこられるように

 「ゆたんぽ」という日常の片隅にある何気ない道具からこの詩は始まる。「ゆたんぽ」の中の水は温かい。体の中の一部でもある水と繋がっていくようだ。生きていく遠い昔と生き物の原始の体感を思い出すように繋がるように湯たんぽの温かさが言葉となって伝わってくる。さらに湯たんぽから溢れるイメージは、時空を越え、砂漠へと、そこに住むベトウィンへと言葉を遠く走らせる。オアシスの匂い。風の湿り。幻のような音楽。洪水のように流れる風。温かな水に誘われ、今、砂漠にいるように、読者は、幻影の世界に迷い込む。

   ベトウィンたちは((ゆたんぽ))のことを知っていただろうか
   水たまりだったものの名を
   たぶん知らない 知らないけれど
   それは体の片隅にあって
   夜にはあふれる温水の床を作り出す

 言葉を通し、繋がるわたし、あなた、遠い他者。「あふれる温水の床」。言葉は繁茂し、一瞬であるかもしれないが、瑞々しい豊かな土壌を作り出す。そして、また、あらたな空間へと。旅は限りなく続いているのかもしれない。