「ペチャブル詩人」を読みました。2013/08/27 00:51

鈴木志郎康さんの『ペチャブル詩人』を読んだ。この詩集は風の詩で始まり、風の詩で終わっている。冒頭の「位置として、やわらかな風」。地下鉄に乗っている詩人。前を見ると一人の若い女性が座っている。その女性と身体が入れ替わる妄想が始まる。妄想の進行とともに味わったことのない身体感覚が生み出され、自分を解き放つ言葉の風が吹き抜けていく。とても爽やかな風。妄想を終え、老いた身体、現実に戻っても、地上の上野、桜の花が満開の状態を予感するわたし。夢想の風、言葉は、舞い戻った現実も豊かに色づかせてくれる。

身体の老い、過ぎ去る時間は誰にも孤独や不安を感じさせるものだ。でも、そういう状態をユーモアたっぷりに客観視するもうひとりの自分がいる。うまく動けない自分を青首大根が笑っていると劇画調に描いたり、蒟蒻を落とした衝撃をペチャブルルというオノマトペで快活に飛躍させたり、言葉の力、風に乗って詩人は、老いから時間から自由に飛び回ろうとしている。

棒きれで円を描き、その中に立ち、自分の領分として楽しんできた(「わたしは詩人です」より)鈴木志郎康さんの極私的な世界。大きな外部に飛びだすのではなく、自分の領分から世界との向き合い、言葉を発してきた、その実りある道のりがこの詩集の背後には積もっている。

あとがきには、「空っぽ」という言葉が何回も繰り返されている。社会的なリタイア、身体の衰え。そして空っぽになっていく自分。でもその空っぽ線を引いた内側には、どこまでも風が突き通る、まだ言葉にはならない深遠な未開の世界が広がっているのではないか。

巻末の詩。「風が激しく吹いている」窓ガラスの隙間からふきこむ風は、外部の力、激しい時の流れなのだろうか。その風に向かい杖をつき、身体で一人対峙する詩人。思い出すのは、新婚旅行で行った隠岐の國賀海岸。断崖に立つ連れ合い、麻理の姿。「風に乗って飛ぶ。」か。言葉がオノマトペが、存在をゆすぶるように内部から飛び立つ。激しい風、時流に拮抗する詩人の気迫ある姿。極私的な世界から詩を書き続けてきた人の自負と言葉への信頼がそこに立っているように感じられた。