ことばの生まれる場所へ2015/06/22 20:39

北爪満喜さんの「ことばの生まれる場所へ」(『奇妙な祝福』詩と写真展)に6月20日行ってきました。詩集『奇妙な祝福』について、作者・詩人の北爪満喜さん、と表紙にのっている作品・家のオブジェを作られた美術家のコイズミアヤさん、そして進行役として詩人の野村喜和夫さん、三人による絶妙なトークで詩集の世界、背景が広がっていくのがよかったです。
 「奇妙な祝福」わたしの好きな冒頭の詩から話は始まりました。夢の中のような詩。雨が、ばしゃばしゃ降り、その中に落ちてくる黄色や緑のくだもの。シュールな色つきの夢のような描写から詩は始まり、今は亡き父や母の姿。そして見知らぬ青年の声とともにわたしは赤ん坊をだいています。温かさとともに。赤ん坊を抱き寄せると急に夢はとび、坂を上ってくる女。その手には小さな赤ちゃん。「この子は残念だけれどロボットとして育てようと思う」女の言葉とともにめざめるわたし。わたしは今日が誕生日だったのだと気づきます。
 誕生の不思議さがシュールな幻想の夢の中で語られていきます。生まれるのはなぜ。自分の意志ではなく、この世に生を受けてしまう赤ん坊たち。どこからきて、どこへいくのか。あてのない浮遊感。ロボットにあらわされる生への不安。負の様々な要素を抱え込みながら、でも、確かに残る腕の中の温もり。そこには赤ん坊がいたのだという証がわたしの身体に刻まれていきます。
 野村さんは、この冒頭の詩の答えが「プラネタリウムの記憶を貼る」に描かれているのではないかと推測。わたしは電車の中からビルの並ぶ夜の都市風景を見ています。月が見え、その月のような母の胎内で守られ生まれ出たわたし。「どこにもつながらない無から/来た」とわたしは気づきます。プラネタリウムの星々の記憶をその闇にはりつけるわたし。無から、何もないところからきたのだと闇の中で肯定する繊細な強さがこの詩集のなかに流れているのだと話を聞きながら感じました。
 コイズミアヤさんのつくる木箱の話もよかったです。箱の中にまた見えない箱が入れ子状に入っていく。外の箱と中の箱が響きあい、きしみあう、その関係が好き・・。コイズミさんの話に導かれるように詩集の表紙をみると、そこにのっている彼女の作品、家の箱も屋根の大部分がはがれ、中の暗闇が見えています。闇と家という器とのきしみ。詩集に濃密に描き出される母や父、祖母の姿、わたしの少女時代。過去という時間が自由に響きあい、拮抗し、だれもいなくなった家の中を幾層にも浮遊していく、心もとなくなる今のわたし。そんなぞくっとする怖くて美しい風景が家と闇のその境界を漂っているのだと思いました。
生家での古びた鏡の前にたたずみ、ポートレイトを撮る詩もあります(「鏡面」)。(会場に飾られた北爪さんの写真も素敵なのですが・・。)鏡にうつるわたしの顔は別人。「陽に焼かれ闇に冷え/時間をためていた鏡面に/吸い込まれ崩れ/幽かな記憶から出てきたような/みたことのない顔」時間の谷間に入り込んだように鏡面にうつるいくつもの顔。詩の中で入れ子状の箱、マトリョーシカを開き続け、わたしは過去の時間を、家族を少女のわたしを描いたのでは・・。生の奥の無重力地帯・闇からの再生の道を模索したのでは・・、と思ってしまいました。他者、外界との繋がりを光を、言葉や身体を通し、求めていったのだと。綿密な構成によってあまれた詩集。ひとりの少女の出生の物語のようでもあり、その背後には生の不可思議さ、宇宙の暗闇に放り出されたような、怖さ、懐かしさのある大きな世界が広がっているのだとあらためて気づきました。詩集を通してのトーク楽しい、有意義な時間をすごせました。

『詩人中野鈴子を追う』 稲木信夫評論集2014/10/27 18:28

著名な兄の名に隠れ、歴史の中に埋もれてしまった詩人中野鈴子を、綿密な作品分析と足跡をたどる丁寧な調査で、再評価した評論集の力作である。兄重治とは違い、故郷福井県一本田に戻り、土地に根を下ろし農家を継ぎ、切実に作品を作り続けた鈴子。彼女の詩は、生きていくことと密接に結びついている。社会や時代と戦い血を流し、書き続けた詩人でもある。歌人窪川鶴次郎をはじめ、数々の恋愛があった。しかし、当時の地方農村の女子として、父の言う通りの結婚を余儀なく受け入れてしまう。思い通りにいかない生活の中で鈴子を支えたのは、詩作への情熱であった。抑圧された女性の生きざまを他者になりかわって詩に託した。封建的な厳しい父。家父長制度の中で、酷使され死んでいった妹。東京で華々しく文学活動を展開する兄やその周りの文人たち。様々な人々との交流が描かれ、彼女の詩が人と時代との交わりの中で育成されてきたことがわかってくる。ラジオ番組や講演会の再録、ゆかりのある詩人たちとのインタビューが掲載され、鈴子の人柄や実直な作風通り、親しみやすい血の通った評論集となっている。晩年交流のあった評者の、鈴子への深い敬意が全編を貫いている。彼女の詩。それは、昭和という時代が持つ陰の大きな側面を浮き上がらせる。真剣に生きた一人の女性の内的発語が当時の女性たちの言葉と重なり、大地に染み渡る鈴の音のように広がっていくのを感じた。

『詩と思想2014年9月号』に掲載していただきました。

国民文化祭 現代詩の祭典 山梨2014/05/13 00:16

昨年の10月(書くのが遅くなってしまったのですが・・。)国民文化祭 現代詩の祭典・山梨に遊びに行ってきました。深沢七郎の小説でも有名な笛吹市で開催されました。小説のイメージが強かったのですが、現実は全然違い、美しい山並みに囲まれた穏やかな落ち着いた町。空気は澄んでいるし、あわい光の中でブドウ畑が連なり、いいところです。

私の行った日は、ブドウ棚に覆われた会場(金桜園)で詩の朗読や講演が行われました。山梨県出身の詩人堀内幸枝さんについて鈴木正樹氏から講演がありました。戦中、戦後と厳しい時代の流れを冷静に観察し言葉にたくした作品の数々。その基盤には、永遠の少女としての憧憬、故郷の豊かな自然、・・、多彩な感覚、感情があり堀内さんの世界が幾重にも広がっていくことを作品にそって緻密に講義してくださいました。

岡島弘子さんの朗読もよかったです。「トンネルをぬける」という長編詩。読み応えがあります。山梨の自然、(水)との関わりが、生きていく力、ものを書きたいという衝動に結びついてくる。瑞々しい感覚、言葉でつづられたこの詩をよむとわたしも日々の小さな自然、生活の中に発見があるのだ、生の原型をみつけることができるのだと実感してしまいます。

スコレーセンターでは、山梨ゆかりの詩人たちの詩集や詩誌(古屋久昭氏所蔵)約400冊が展示されていて、面白く読ませていただきました。

矢野静明さん 個展2014/02/24 14:51

画家、矢野静明さんの個展が座間駅前の「ギャラリーアニータ」で開かれました。作家トークもあり、楽しく充実した時間を過ごせました。

幼少時代の体験が絵を描くことと結びついているというお話が興味深かったです。ふたつの貴重な体験談を話されました。

保育園で黒板に自分の名前を書いた時、「の」の字をわからなくなり、渦のように線を引き続けてしまった女の子のこと。その字を見たときの衝撃がわすれられないと矢野さんは言います。「の」は、「の」という意味を越え既成概念をはずし、黒板の上で限りなくひろがっていく。その衝撃に線の力、形の力を感じ取ってしまったのでしょう。

また、さるすべりの枝を書いた時。線を移動していく。絵とものが自分の手(身体)でつながっていくということに驚いた。木と手と絵がつながった時、外部にむかって内部の目が開いた。絵を描く喜びがそこにあった・・。とてもわかる気がします。

矢野さんの持続する、反復する、書くという内在の力は、この二つの出来ごと(出会い)が根底にあるからなのでしょう。プリミティブな内在から湧き上がる力を感じます。

また光と影のコントラストで奥行きを感じさせる木炭画と平面的な色彩を使った作品の対比もよかったです。

80年代、色がなにかわからなくなったときに、白黒の木炭画がはじまり、アメリカ、バーモンド州の積雪地帯、色のない土地でくらすことによって色のある作品が出現するその過程も、画家の身体、内在の力と結びついているようでおもしろく聞きました。

フレームのない作品、形にとらわれない。矢野さんの作品は魅力的です。遊牧民の織物から発想を得たという「移動・移民」シリーズ。布のような水彩紙(フレームがない)に黒の木炭で地塗りをし、色のあるソフトパステルで点を打っていく。点描・繰り返される形が永遠と続く、この作品群。原初的な動く民の力が伝わってくるようで広大な広がりがあり魅力的でした。

詩集『パルナッソスへの旅』2014/02/23 22:50

『パルナッソスへの旅』  相沢正一郎さんの詩集です。大変読みごたえのある詩集です。稚拙な感想ですが・・。

             *     *     *

言葉の佇まいから、新鮮な息吹の聞こえてくるような詩集だ。日常と小説や詩のテキストの間を言葉は巧みに行き来し、旅を続けていく。

「ランボーに」ではテレビの画面の砂嵐からランボーの世界に入っていく。でも主体になるのは、ランボーの砂漠ではなく、詩集に挟み込まれたレシートから言葉がたどっっていく作者の日常だ。全編を通し、日常、外部の世界を《風の足裏》詩人の感触でたどっていきながら、古典や小説、詩の世界にも入り込み、そしてまた日常(キッチン)へ言葉は戻ってくる。鮮やかに言葉は様々な空間を行き来する。詩人にとって、日常も非日常(小説や詩の世界)もどちらも書かねばならない大切な世界なのだろう。

タイトルの一部にもなっている「パルナッソスへ」。月刊誌『毎日が発見』からこの名画を切り抜くというのという設定が暗示的だ。「パルナッソス神殿」はクレーの集大成のような作品。詩や音楽の聖地が美しい色の集まりシンフォニーのように描かれる。その神殿を目指して旅をするというのが、大きな広がりと永遠への憧憬を思わせる。

「声の庭」では、母の死が漂う空間、それに沿うように、庭の自然や日常が色濃く経過していく。虫めづる姫君や源氏物語の引用と重なって、空間がさらに広がっていく。死者のいる世界が、美しく切り取られた日常とテキストの中とそれぞれの交換(交歓)の場を通して生き続けるものになっていくようである。この詩集では発語の源が、まさに平行して流れる日常やテキスト、過去、死・・・、様々な場の交歓によって成り立っているのではないかと思う。もちろん嫌なこと悲しいこと、負の部分も日常にはいっぱいあり、それを感じる言葉もある。でも、最終的には、生への歓びが肯定感が言葉の背後から立ち上がってくるのだ。

「(ろばは しずかにあるいていた)」では、もう一つのオデュッセウス『二〇〇一年宇宙の旅』を探していた時に、『ジャム詩集』をみつけるという、またまた、暗示的な場面(よく作品が伏線をはって言葉で作り込まれている。)が登場する。「ジャム詩集」から現れた「ろば」がとても不思議な存在だ。テキストから抜け出したように作者のもとに寄り添い、詩編がかかれることを通して作者を通り過ぎていく。クレーの描く天使のような存在。何か深い静かな思索的な空間。旅は、きっとどこかへ行くものではないのだろう。待ち続けること、日常に寄り添うこと(寄り添うものをみつめること)、そしてそれらを通し、静かに通過するものを見送ること、それもまた旅なのだ。充実した静謐な詩空間である。