詩集『色トリドリの夜』 ― 2009/08/28 00:00
五十嵐倫子さんの詩集『色トリドリの夜』を読みました。暖かな光りにそっと包みこまれるような感じになる詩集です。
若い女性の感じる日常が、丁寧に瑞々しく、書かれています。会社勤めをし、一人暮らしをしている女性。どこにでもあるような風景なのに、詩人の言葉を通すと、一つしかない、大切な時間として言葉で刻まれていきます。たぶん、五十嵐さんが、言葉を通し、自分を見据え、自分を変えようとしているからなのでしょう。その一途さが、風通しよく、言葉を前へ進めさせます。何か日常の中で躊躇していた読み手を勇気づけ、優しく後押ししてくれます。
「ファンデーション」という詩。化粧室で洗面台にファンデーションを落とした日常のさりげない描写から始まります。誰でもが体験したよくある光景。破片をつぶし、水を流し、、跡形もなく粉を消し去って、すべてを新しくしていけばいいと心の中で言い切るわたし。しかし、自分を内省していくと、割り切ることのできないもの、新しくすることのできないものがドンドン広がっていきます。
友達を切り捨てる。家族を切り捨てる。要領よく世の中をわたっていく・・。何かを振り切って、日々を更新していく・・。そんなことはできないと、割り切れない気持ちが広がっていきます。合理的な日常の営みと相反するようにわたしは言葉の世界で、自分を探し始めます。でも、深刻ではなく、五十嵐さんの言葉はとても軽やかにフットワークがいいのです。そして、その軽やかさに読み手は元気づけられます。気持ちの揺れが、流れていくファンデーションの描写とともに、うまく表現されていると思いました。
「ココロとカラダ」。仕事帰り、疲れた夜。定食屋のいつも決まったカウンターで座って食事をしていると、カラダからココロが離脱して空を飛んでいきます。荒唐無稽な設定も、言葉が柔軟に伸びていくので、すんなりと読み手の中に入ってきます。カラダからココロを見た視点。ココロからカラダを見た視点。それらが連ごとにうまく入れ替わり、定食屋から電車に乗って家のある駅につくまで、ひとつのドラマを見ているようです
意識のない
カラダは空っぽの器になって
電車にゆらりゆら揺られていた
周りにもたくさんの器があって
一緒に運ばれていく
座っている器
立っている器
喋っている器
眠っている器
読んでいる器
聞いている器
考えている器
そのひとつひとつが 灯っている
きっと、カラダを離れたココロが、電車に揺られて行く人々を天井から眺めたら、こんな感じなんでしょう。「そのひとつひとつが 灯っている」ここに他者を、一人一人を思う、五十嵐さんの優しさがあります。あり得ない風景なのにリアルで、いつか見た(デジャヴュ)光景のような懐かしさまで感じてしまいます。
「振替乗車」。これも、会社からの帰路のことを書いた詩です。電車が車輌故障をおこした日、わたしは、あずき色から緑色の電車へ。緑色から青色急行へと乗り換えて(何線と言わず、色で表現しているのがとてもおもしろい。)家に帰ってきます。わたしは、いつもと違う風景を見ることが出来ます。いつもと違う駅で降り、いつもと違う道でわたしは中学生のわたし(幻影)と出会います。うつむき加減に、ひとりぼっちで歩くわたし。そういう過去のわたしと決別するかのように、わたしは幻影を追い越し、歩き続けます。
振り替えられた私は
好きな色で塗り替えていく
黒く光る道を
緑でぬろう (稲波がいざなう
青でぬろう (出航だ!
一歩踏み出せば
つま先から色が広がっていく
色トリドリの夜
これは幻想ですか?
いいえ、私は振り替えられていない
誰にも頼らずこうして歩いている
塗り替えたその先へと
私が歩いていく
言葉で自分の道を歩き進んでいこうとする、きっぱりとした態度。詩集の言葉、一つ、一つが、この進もうとする、広がろうとする作者の思いから、屹立しているのでしょう。
色トリドリの夜。素敵な言葉です。ただの暗闇ではなく、闇の中にも様々な個性的な色はあるのです。でも、日常の忙しさの中に埋没し、そのすばらしさに気がつかないだけ。言葉の力で、それに、気づいた作者。色トリドリにそれぞれの道を歩んでいけばいいんだ・・。気がつかないすばらしい色が、日々の中には潜んでいるのだ・・。読んでいるうちに、こちらも一歩を踏み出す、ささやかな夢に向かっていく勇気をもらうことができます。自分の道を歩んでいく、足元の確かな温かな感触が蘇ってくるのです。
若い女性の感じる日常が、丁寧に瑞々しく、書かれています。会社勤めをし、一人暮らしをしている女性。どこにでもあるような風景なのに、詩人の言葉を通すと、一つしかない、大切な時間として言葉で刻まれていきます。たぶん、五十嵐さんが、言葉を通し、自分を見据え、自分を変えようとしているからなのでしょう。その一途さが、風通しよく、言葉を前へ進めさせます。何か日常の中で躊躇していた読み手を勇気づけ、優しく後押ししてくれます。
「ファンデーション」という詩。化粧室で洗面台にファンデーションを落とした日常のさりげない描写から始まります。誰でもが体験したよくある光景。破片をつぶし、水を流し、、跡形もなく粉を消し去って、すべてを新しくしていけばいいと心の中で言い切るわたし。しかし、自分を内省していくと、割り切ることのできないもの、新しくすることのできないものがドンドン広がっていきます。
友達を切り捨てる。家族を切り捨てる。要領よく世の中をわたっていく・・。何かを振り切って、日々を更新していく・・。そんなことはできないと、割り切れない気持ちが広がっていきます。合理的な日常の営みと相反するようにわたしは言葉の世界で、自分を探し始めます。でも、深刻ではなく、五十嵐さんの言葉はとても軽やかにフットワークがいいのです。そして、その軽やかさに読み手は元気づけられます。気持ちの揺れが、流れていくファンデーションの描写とともに、うまく表現されていると思いました。
「ココロとカラダ」。仕事帰り、疲れた夜。定食屋のいつも決まったカウンターで座って食事をしていると、カラダからココロが離脱して空を飛んでいきます。荒唐無稽な設定も、言葉が柔軟に伸びていくので、すんなりと読み手の中に入ってきます。カラダからココロを見た視点。ココロからカラダを見た視点。それらが連ごとにうまく入れ替わり、定食屋から電車に乗って家のある駅につくまで、ひとつのドラマを見ているようです
意識のない
カラダは空っぽの器になって
電車にゆらりゆら揺られていた
周りにもたくさんの器があって
一緒に運ばれていく
座っている器
立っている器
喋っている器
眠っている器
読んでいる器
聞いている器
考えている器
そのひとつひとつが 灯っている
きっと、カラダを離れたココロが、電車に揺られて行く人々を天井から眺めたら、こんな感じなんでしょう。「そのひとつひとつが 灯っている」ここに他者を、一人一人を思う、五十嵐さんの優しさがあります。あり得ない風景なのにリアルで、いつか見た(デジャヴュ)光景のような懐かしさまで感じてしまいます。
「振替乗車」。これも、会社からの帰路のことを書いた詩です。電車が車輌故障をおこした日、わたしは、あずき色から緑色の電車へ。緑色から青色急行へと乗り換えて(何線と言わず、色で表現しているのがとてもおもしろい。)家に帰ってきます。わたしは、いつもと違う風景を見ることが出来ます。いつもと違う駅で降り、いつもと違う道でわたしは中学生のわたし(幻影)と出会います。うつむき加減に、ひとりぼっちで歩くわたし。そういう過去のわたしと決別するかのように、わたしは幻影を追い越し、歩き続けます。
振り替えられた私は
好きな色で塗り替えていく
黒く光る道を
緑でぬろう (稲波がいざなう
青でぬろう (出航だ!
一歩踏み出せば
つま先から色が広がっていく
色トリドリの夜
これは幻想ですか?
いいえ、私は振り替えられていない
誰にも頼らずこうして歩いている
塗り替えたその先へと
私が歩いていく
言葉で自分の道を歩き進んでいこうとする、きっぱりとした態度。詩集の言葉、一つ、一つが、この進もうとする、広がろうとする作者の思いから、屹立しているのでしょう。
色トリドリの夜。素敵な言葉です。ただの暗闇ではなく、闇の中にも様々な個性的な色はあるのです。でも、日常の忙しさの中に埋没し、そのすばらしさに気がつかないだけ。言葉の力で、それに、気づいた作者。色トリドリにそれぞれの道を歩んでいけばいいんだ・・。気がつかないすばらしい色が、日々の中には潜んでいるのだ・・。読んでいるうちに、こちらも一歩を踏み出す、ささやかな夢に向かっていく勇気をもらうことができます。自分の道を歩んでいく、足元の確かな温かな感触が蘇ってくるのです。
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