詩集『パルナッソスへの旅』2014/02/23 22:50

『パルナッソスへの旅』  相沢正一郎さんの詩集です。大変読みごたえのある詩集です。稚拙な感想ですが・・。

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言葉の佇まいから、新鮮な息吹の聞こえてくるような詩集だ。日常と小説や詩のテキストの間を言葉は巧みに行き来し、旅を続けていく。

「ランボーに」ではテレビの画面の砂嵐からランボーの世界に入っていく。でも主体になるのは、ランボーの砂漠ではなく、詩集に挟み込まれたレシートから言葉がたどっっていく作者の日常だ。全編を通し、日常、外部の世界を《風の足裏》詩人の感触でたどっていきながら、古典や小説、詩の世界にも入り込み、そしてまた日常(キッチン)へ言葉は戻ってくる。鮮やかに言葉は様々な空間を行き来する。詩人にとって、日常も非日常(小説や詩の世界)もどちらも書かねばならない大切な世界なのだろう。

タイトルの一部にもなっている「パルナッソスへ」。月刊誌『毎日が発見』からこの名画を切り抜くというのという設定が暗示的だ。「パルナッソス神殿」はクレーの集大成のような作品。詩や音楽の聖地が美しい色の集まりシンフォニーのように描かれる。その神殿を目指して旅をするというのが、大きな広がりと永遠への憧憬を思わせる。

「声の庭」では、母の死が漂う空間、それに沿うように、庭の自然や日常が色濃く経過していく。虫めづる姫君や源氏物語の引用と重なって、空間がさらに広がっていく。死者のいる世界が、美しく切り取られた日常とテキストの中とそれぞれの交換(交歓)の場を通して生き続けるものになっていくようである。この詩集では発語の源が、まさに平行して流れる日常やテキスト、過去、死・・・、様々な場の交歓によって成り立っているのではないかと思う。もちろん嫌なこと悲しいこと、負の部分も日常にはいっぱいあり、それを感じる言葉もある。でも、最終的には、生への歓びが肯定感が言葉の背後から立ち上がってくるのだ。

「(ろばは しずかにあるいていた)」では、もう一つのオデュッセウス『二〇〇一年宇宙の旅』を探していた時に、『ジャム詩集』をみつけるという、またまた、暗示的な場面(よく作品が伏線をはって言葉で作り込まれている。)が登場する。「ジャム詩集」から現れた「ろば」がとても不思議な存在だ。テキストから抜け出したように作者のもとに寄り添い、詩編がかかれることを通して作者を通り過ぎていく。クレーの描く天使のような存在。何か深い静かな思索的な空間。旅は、きっとどこかへ行くものではないのだろう。待ち続けること、日常に寄り添うこと(寄り添うものをみつめること)、そしてそれらを通し、静かに通過するものを見送ること、それもまた旅なのだ。充実した静謐な詩空間である。